2006.05.26

妙心寺 塔頭 大心院(だいしんいん)

20060526_01 20060526_02 20060526_03 深い庇と縁が光線の反射を重ね障子を透した上質の明かりが陰翳を招く方丈の空間。寺院住持の生活の場であると共に、宗教儀式が行われる場として開放的な内部空間と厳格な緊張感漂う必要があり、様々な意匠が格式高い「真の空間性」を演出する。

曲線を描く漆黒の節欄間は、室の境界線を明示しながらも上部に小壁は無く竿縁が室と室の連続性を示す。天井長押は、柱を受止め垂直の流れを断ち漆喰の大壁が天井と壁面との間に余白を与え、吊り天井は面的要素を強調する。
半透明の仕切りと室を統一する天井が、程好い遮断と開放の関係を生み、室と室の隔離を避け水平に広がる一室空間を作り出す。

柱は面取り角柱で直線的な線を描き、建具の黒漆塗り縁は空間を引き締め枠となる。室中の間に敷かれた床は、黒光り内部の気配を写す。厳格な緊張感漂う内部空間に沈黙と陰翳の黒を招く。

末寺院の僧侶が本山に出張したおり一夜の宿として利用した大心院。
陰翳に包まれた明け方、方丈で宗教的訓練が行われる。心をとらえる「真の空間」の美意識がここに宿る。

Dsc060526_p50 マイフォト:060526_妙心寺 塔頭 大心院(その他の写真)


Dsc060526_s50 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


創建:文明十一年(1479年)細川政元が景堂和尚に帰依して上京区の大心院町に創建。天正年中(1573年)細川幽斎により妙心寺山内へ移設。
宗派:臨済宗妙心寺派
建築:方丈(禅宗方丈建築)書院(宿坊)
庭園:阿吽庭(枯山水庭園)作庭:中根金作
拝観:通常公開 9:00〜17:00 300円(宿坊利用可)


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2006.05.19

妙心寺 塔頭 桂春院(けいしゅんいん)

20060519_01_1 20060519_02_1 20060519_03 濃萌黄に染まる木々に包まれた桂春院方丈が高台にひっそり佇む。唐門より方丈、渡廊下、書院へと導く動線に合せ、高低差を巧みに利用した庭園が様々な風景を演出し、方丈には緑彩る葉先が迫り広縁に自然の気配が充満する。

方丈を南東に南庭「真如の庭」東庭「思惟の庭」書院の前庭「侘の庭」がある。
「見方」の異なる三種類の庭園は、観賞と行為が融合した手法が施され異なる表情を醸し出す。

円弧を描くツツジの刈込みが傾斜を覆い、一面に広がる杉苔の絨毯にはさりげなく庭石を配する観賞の庭「真如の庭」

東縁の生垣が水平線を描き東縁と庭を隔て、梅軒門脇の生垣が方丈と書院の領域を示す。左右の築山に十六羅漢石、中央に座禅石を配し動線は書院の前庭に導かれる。東縁からの観賞と庭を巡る行為が融合した庭「思惟の庭」

梅軒門を潜ると飛び石が書院の奥へと続き、猿戸によって外露地と内露地に分かれる。茶室「既白庵」に導く露地の庭「思惟の庭」

方丈から「真如の庭」を眺め「思惟の庭」から梅軒門を潜り書院前庭「侘の庭」へと繋がる。観賞から行為へ、三種類の庭園はアプローチへと変化する。全ては、隠された茶室「既白庵」を暗示するために。

Dsc060519_p50 マイフォト:060519_妙心寺 塔頭 桂春院(その他の写真)


Dsc060519_s50_1 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


創建:慶長三年(1598年)織田信忠の次男、津田秀則により見性院としてして創建。
秀則の死後、美濃の豪族、石河貞政が寛永九年(1632年)桂南守仙和尚を請じて桂春院と改名。
宗派:臨済宗妙心寺派
建築:方丈(禅宗方丈建築)書院建築、茶室(既白庵)
庭園:清浄の庭、思惟の庭、真如の庭、侘の庭
拝観 : 通常公開 9:00〜17:00 400円


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2006.05.12

妙心寺 塔頭 退蔵院(たいぞういん)

20060512_01 20060512_02 20060512_03 黐の立木が視線を止める表門の風景。庫裡玄関へと導く延べ段が斜めに線を描き、客殿玄関へと分岐する。 奥行きを深める生垣、分岐点を示す紫竹と敷石、参道の中心を構成する黐の立木は歩みを進めると共に左に視線を誘導し客殿玄関へと導く。視線と動線のバランスが生み出す演出は私を心地よく迎えてくれる。

方丈の西側に庭園(通称:元信の庭)がある。室町時代の画聖、狩野元信の築庭とされる枯山水庭園で、方丈壇那間より鑑賞すると「生きられた襖絵」になるよう構成されていると言われる。

しかし、庭園を鑑賞するうちに私は一つの疑問を抱いた。石組みと点在する潅木は低く配され視線は下へと向けられる。方丈壇那間より覗き込まない限り、庭園を鑑賞することは出来ない。
また、方丈内部の柱や方立の位置、附書院の配置、様式の異なる開口部、西側の縁を内部に増築した後が残る。寛政の都林泉名称図会に描かれた風景には建物は描かれていない。あくまで推測の行きをでないが、増築の際に「生きられた襖絵」を演出したのではないかと思われる。

今は見る事が出来ないが、庭園の気配を内部につなぐ広縁に腰を下ろし、元信の庭を眺めた時、庭園は「生きられた庭園」になる。

知識では見えてこない「生きられた庭園」に思いを寄せて、水琴窟の音色を聴きに余香苑へと向かった。

Dsc060512_p50 マイフォト:060512_妙心寺 塔頭 退蔵院(その他の写真)


Dsc060512_s50_1 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


創建:応永十一年(1404年)波多野出雲守重通が妙心寺第三世無因宗因禅師に帰依して創建。
応仁の乱炎上後、亀年禅愉禅師によって再建。
宗派:臨済宗妙心寺派
建築:方丈(禅宗方丈建築)隠れ茶室(囲の席)
庭園:元信の庭(枯山水庭園)作庭:狩野元信・余香苑(池泉回遊式)作庭:中根金作
拝観 : 通常公開 9:00〜17:00 500円


関連人物 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
狩野元信(かのう もとのぶ)

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2006.05.05

下鴨神社(賀茂御祖神社) 流鏑馬神事(やぶさめしんじ)

20060503_01_3 20060503_02 20060503_03 葵桂若葉が緑を深め、枝葉透く五月の光は参道に陰影を演出する。
泉川の清流がきらめき、爽やかな風が吹き抜ける糺の森は、静寂に包まれる。

「イン、ヨー」沈黙を破る勇ましい掛け声が糺の森に響き渡り、色彩鮮やかな平安公家束帯姿の射手が馬を馳せる。
射手は奔馬と呼吸を合わせ、両手を放し、箙(えびら)より鏑矢を抜き弓につがえ弓を引き絞り的を射る。その瞬間、静寂に包まれた馬場にどよめきと歓声が起こった。

三ヶ所の的を射た射手は、馬と共に馬場殿まで進み神禄の帛を賜い、馬上で拝舞を行う。その射手の凛とした姿と優美な舞に典麗な雰囲気が漂う。

流鏑馬神事は、賀茂祭(葵祭)前儀の中で最初の祓の神事、賀茂祭の幕開けを告げる。

dsc060503_p50 マイフォト:050603_賀茂御祖神社 流鏑馬神事(その他の写真)


DSC050503_ma50 マイムービー:二の的 公家装束 射手(0.7MB)


DSC050503_mb50 マイムービー:神禄の帛、拝受・馬上拝舞(2.7MB)


祭事:賀茂御祖神社(下鴨神社) 流鏑馬神事 5月03日(火)
形式:葵祭の前義(祓の神事)
行事:社頭の儀、流鏑馬 馬場入りの儀、神禄の帛 拝受と拝舞


mapion_logo Mapion:京都府京都市左京区下鴨泉川町




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2005.08.17

花背松上げ (はなせまつあげ)

20050815_01 花の京を背にする洛北の奥、都の賑わいは鞍馬で途絶え静けさ漂う花背に辿り着く。 陽が沈み暗闇が集落を包み込む頃、静まり返った早稲谷の河川敷に太鼓の響きと共に一つの小松明に火が灯り「花背松上げ」の開始を告げる。

この小さな光が町衆を呼び寄せ、小松明を手にした男衆が列をなし河川敷へ向かう。火の帯が中央に集まり、河川敷に配された約1000本の地松に次々と火が灯され水平面状に広がる時、 火に包まれた領域の中心に20m程の檜丸太「灯籠木(とろぎ)」が立ち現れる。
垂直軸は無限に広がる水平面の領域を限定し空間を獲得するという空間の最も単純なモデルが時間と共にこの場に形成される。

辺り一面火の海と化した地松の火が徐々に小さくなる頃、男衆は「灯籠木(とろぎ)」の周りに集まり、一際大きく響く太鼓の音を皮切りに大笠めがけて小松明を投げ上げる。小松明は夜空に放たれ、力強い男衆の掛け声と共に放物線を描き夜空を焦がす火跡が雨のように降り注ぐ。

四方八方から放たれた小松明はやがて大笠に入り炎に包まれると、「灯籠木(とろぎ)」は一気に倒され地面に叩き付けられ、火の粉が飛び散り煙が立ち込める。その光景に歓声と大きな拍手がわき起こった。

仮設の祭事、普段何もない河川敷の空間は一年に一度、意味ある空間に変貌する。

松上げ
広河原松上げ 8月24日(水) 左京区広河原
雲ヶ畑松上げ 8月24日(水) 北区雲ヶ畑

DSC050815_p50 マイフォト:050815_花背松上げ(その他の写真)


祭事:花背松上げ 8月15日(月)
祭場:京都市左京区花背八枡町 
由来:松上げは、大堰川(桂川)の源流に程近い、旧若狭街道沿いの集落に伝わる愛宕信仰の精霊送りと火災予防、五穀豊穣祈願の火の祭事 


mapion_logo Mapion:京都府京都市左京区花脊八桝町




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2005.07.26

大徳寺 塔頭 高桐院(こうとういん)

20050721_01 20050721_02 20050721_03 蝉も静かな朝明け、高桐院の表門は開かれる。重厚な門を抜けるとそこには静寂の世界が広がる。 竹林、楓林を透く木漏れ日が巧みに陰影をつくり、一直線に伸びる延べ段と竹手摺、目線に沿った生垣が軸線を強調し奥行きを深める。竹林を通り抜ける爽やかな風音、朝明けの光に包まれたその美しい光景に息を呑む。

朝明けの高桐院を訪れる目的は他にもある。極稀に住職の気紛れで唐門が開かれる。期待に胸を躍らせ表門を潜るが今日は閉じている。高桐院参道の真の魅力は、唐門が開かれた時初めて理解出来るからである。

現在、特別な場合を除き寺院に参拝する時は庫裏玄関より建物に入るようになっている。 庫裏は、住職が居住する生活の場であり、そこに拝観口を設ける事は防犯、手続き等、利便性があるからである。しかし、本来参道を進むにつれ違和感無く境内へ至るには、唐門を潜り方丈に抜けるアプローチが理想的であり、参道と建物を繋ぐ唐門が利便性により閉ざされている事を残念に思う。

高桐院の唐門は、垂木が吹寄せ割り(二本おきに垂木を抜いた間隔)で繊細な線を描き、参道の軽やかな空間に馴染む。扉の奥には花頭窓(かとうまど)があり、障子から垣間見える風景の奥に「細川三斎・ガラシャ夫人」の墓塔として石灯篭がある。利休が愛したこの石灯籠は、秀吉から所望されるが、笠の一部をわざと欠いて傷物として秀吉の請を断り、利休の遺言で三斎に送られたものである。

花頭窓より石灯籠を眺める事はできないが、石灯籠の前面にある瓦葺きの小さな門が石灯籠の位置を暗示させ、参道の軸線が唐門を潜り、方丈を抜け、石灯籠に辿り着く。
つまり、参道の軸線上に石灯籠がある。高桐院の参道は、導入部分として在るだけではなく、空間を軸線上に繋ぐ大切な役割を果たしている。

このような、演出が施された参道の魅力を理解出来るのは、唐門が開かれる時だけである。

住職の気紛れ、今日は閉じている。次に訪れる時は唐門が開いている事を望む。

dsc050721_p50 マイフォト:050721_大徳寺 塔頭 高桐院(その他の写真)


dsc050714_s50 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


創建:慶長六年(1601年)細川忠興(三斎)が父細川幽斎の弟、玉浦紹宗を開祖として創建。
宗派:臨済宗大徳寺派
建築:書院(意北軒、利休の聚楽屋敷の広間を移築)茶室(松向軒・鳳来)
拝観 : 通常公開 9:00〜16:30 400円


関連人物 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
細川藤考、幽斎(ほそかわふじたか、ゆうさい)
細川忠興、三斎(ほそかわただおき、さんさい)
細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ)

mapion_logo Mapion:京都府京都市北区紫野大徳寺町




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2005.07.17

大徳寺 塔頭 瑞峯院(ずいほういん)

20050714_01 DSC050714_17 DSC050714_19 茹だるような暑さ故、急ぎ足で境内を進み瑞峯院に向かう。徐々に見え始める表門の奥に在る参道が、奥行きを感じさせ歩みはより進む。表門正面まで進むと、L型に配された生垣が奥行きを隠し空間を止める。この生垣が私の足を一旦止め、一瞬の「ま」を与える。この「ま」が焦る心を落ち着かせ、新たな心で参拝する準備を行うために在る意匠だと気付き一呼吸。

方丈を南北に南庭、独坐庭(どくざてい)北庭、閑眠庭(かんみんてい)がある。 この両庭園は、戦後しばらく苔だけの荒れた庭園となっており、創建当初の文献も少なく復元が困難な状態にあった。1962年、開創400年を記念して昭和の作庭家「重森三玲氏(しげもりみれい)」により大友宗麟(おおともそうりん)の思いを受け作庭された庭園である。

白砂は、波紋の模様を荒く深く描き、蓬莱山に見立てた石組みが荒波に打ち寄せられても悠々と独坐する「独坐庭(どくざてい)」

東庭のキリシタン灯籠を軸に北庭に伸びる石組みが十字架の道行きを描き、灯籠横の礎石は方丈と平行に軸を描く。二つの軸が交わる点が十字架の位置を決定し、沈黙の中に緊張感を与える。キリスト教を信仰した宗麟の思いが静かに眠る沈黙の「閑眠庭(かんみんてい)」

対照的な雰囲気を醸し出す庭園は、重森三玲氏の斬新で大胆な意匠により見事に表現され、瑞峯院の空間を豊かにする。
しかし、斬新さ故、庭園の自立性・作品性が強く表現され、庭園と建物の関係に少し距離があるように思える。異なる自立性が互いに共生し造り出される空間にこそ、禅寺が持つ魅力的な空間美があり、張りつめた緊張感はその関係距離により生み出されるものである。庭園と対峙し思惟を巡らせる事ができる余白の重要性を改めて感じた。

広縁に腰を降ろし庭園を眺めながら思惟にふけていると、「随分長く居るのですね」一人の男性が声をかけてきた。振り返ると背丈は低いが目に力がある男性が、その風格から住職だと気付き「空間に潜む豊かな意匠を読み取る為に、ゆっくりと時間をかけて見ているんです。」とスケッチを取り出した。
住職は私のスケッチを手に取って熱心に眺め「若い者が日本の文化に興味を持つ事を嬉しく思う」と笑顔で話し始めた。その後「お茶でもどう」と控えの茶席に案内されお茶を頂きながら禅宗・庭園・建築等、話は弾み素敵な時間を過ごす。

「ところで君は茶道をしているのかな」と聞かれ「以前から興味はあるのですが」と苦笑い。すると「外から建築を眺めても多くは理解出来ないよ、茶道を通し内から建築を見るともっと世界が広がるんじゃないかな。私が先生を紹介するから後日来なさい」と話す住職に、私は深く頭をさげた。

ここにまた、素敵な出会いと出来事があった。

dsc050714_p50 マイフォト:050714_大徳寺 塔頭 瑞峯院(その他の写真)


dsc050714_s50 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


創建:天文四年(1535年)大友宗麟が法系九十一世徹岫宗九禅師を開祖として創建。
宗派:臨済宗大徳寺派 特例
建築:方丈(禅宗方丈建築)茶室(餘慶庵・安勝軒・平成待庵)
庭園:独坐庭・閑眠庭(蓬莱形式枯山水庭園)作庭(重森三玲)
拝観 : 通常公開 9:00〜17:00 400円


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2005.06.10

大徳寺 塔頭 大仙院(だいせんいん)

20050606_01 20050606_02 20050606_03 静寂に包まれた大仙院の朝景。水平に射込む光が整然と描かれた砂紋に奥行きを与え無限な広がりをもたらす大海。一対の砂盛は方丈の中心を暗示し庭との一体感を醸し出す。静寂な雰囲気漂う庭園に清く緩やかな水の流れを瞑想し広縁に腰を下ろすと、白砂に反射した光がキラキラと顔を照らす。

方丈北庭を基に蓬莱山より流れる渓流が、二手に別れ平らかな水流となり、大海へと至る。 移ろう枯山水庭園は方丈を囲い動的な流れを感じさせる。
枯山水の由来は「仮り山水」であり、「石をもって山とし、砂をもって水とする」禅者の悟りへの展開を自然の仮の姿に抽象化し造り上げた世界である。私が、自然に我を解き「もの」に潜む「もの」を捉えるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

空間の流れを感じる大仙院の庭に領域を隔てる「敷石」がある。方丈西庭に敷かれた一線の切石。空間の流れを絶つことなく異なる空間を明快に区別する意匠。その繊細な表現が空間の意味を決定する。一見見落とされる敷石にも仕組まれた意匠がある。

このような思惟を巡らせ空間を味わえるのは開門から30分程度。その後は引っ切り無しに訪れる拝観者の列。大仙院は大徳寺塔頭の中で取分け人気の寺である。

dsc050606_p50 マイフォト:050606_大徳寺 塔頭 大仙院(その他の写真)


dsc050606_s50 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


創建:永正(1509年)正法大聖国師(古岳宗亘禅師)を開祖として創建。
宗派:臨済宗大徳寺北派本庵
建築:方丈(禅宗方丈建築)書院の間、茶室(すいしょう室)捨雲軒(書院建築)
庭園:大海・中海・方丈北庭(蓬莱形式枯山水庭園)
拝観 : 通常公開(写真撮影禁止)


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2005.05.30

北村邸 四君子苑(しくんしえん)

20050522_01 20050522_02 20050522_03 雑踏する大路を一筋入ると人影も疎らな小路にでる。格式高い風格の長屋門が今日は開いている。雫を弾く敷石、竹穂と隙の間隔が内の気配を透かす稲穂垣、苔は潤い、表門から垣間見える風情は朝雨のせいか落ち着いた雰囲気を醸し出す。

内玄関を潜り薄暗い廊下を伝って、光が射し込む部屋に出る。
昭和38年(1963年)吉田五十八氏による増築「新座敷棟」主室、次の間、書斎。伝統的な数寄屋に現代の風を吹き込んだ近代的な数奇屋が、庭園と調和し旧棟と共存する。そこには吉田五十八氏の人間性が感じられる。

数寄屋(すきや)とは建築の様式ではなく「数寄」は「好き」の当て字であり風流・風雅の趣味的な美学的概念である。つまり「数寄屋」とは、「数寄者」の固有な芸術的要求を満たす建物を指す。

吉田五十八氏は、数寄屋の様式性ではない趣味的世界観に近代建築の可能性を求め、「明朗性」という言葉を基に身動きの取れない伝統様式を再解釈し無駄な物を整理、排除する。簡素化された空間に現代の生活と直結した新しい建築スタイル(吉田流)を提示し近代数寄屋を完成させた。その代表作が北村邸(四君子苑)である。

新座敷棟の空間には様々な意匠が仕組まれている。床の間の「落ち掛け」が繊細な線を描き緊張感を醸し出す。中央の柱は回転し隠された襖が現れる(押込戸)。天井照明の横幅は襖と同じ幅で空間に統一感を与える。主室と次の間を繋ぐ両義的な鴨居と襖。書斎の角柱は外され、室内と庭は一体となる。
全体的な構成より部屋の組合せや、インテリアの演出に重点を置いた吉田五十八氏の設計手法は様々な演出を造り出し、空間を風流・風雅なものに仕上げる。

数奇者である北村謹次郎の人格、趣味を建築として造り上げた吉田五十八氏は建築家であると同時に融通無碍な数奇者である。

DSC050522_p50 マイフォト:050522_北村邸 四君子苑(その他の写真)


DSC050522_s50 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


吉田五十八(よしだいそや)1894 〜 1974
1894年東京生まれ。東京芸術大学卒業後(現東京芸術大学)卒業後、欧米に遊学。
1949年東京芸術大学教授に就任、1964年文化勲章受章。

由来 : 四君子(しくんし)とは、「菊・竹・梅・欄」の異称。頭文字の組み合わせにより「き・た・む・ら」と読めることから、四君子苑と名付けられた。
竣工:北村謹次郎が梶井宮本坊敷地の一角に「北村邸(四君子苑)」を建築。
設計 : 昭和19年(1944年)四君子苑「北村捨次郎」昭和38年(1963年)新座敷棟増築「吉田五十八」
様式 : 数寄屋建築、現代数奇屋建築
選定 : 文化庁登録有形文化財、京数奇屋名邸十撰
拝観 : 通常非公開(春・秋、定例公開)


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2005.05.24

大徳寺 塔頭 興臨院(こうりんいん)

20050516_01 20050516_02 20050516_03 表門を潜ると、切石と自然石を組合せた延べ段(のべだん)が、参道と建物の領域をわける構成に配され、参道に異なるリズムを与える。
シンプルな構成だが意味はある。空間の移り変わりが心地よい流れを演出し、寺を訪れた人々を奥へと誘う。

方丈の北東側に茶室、涵虚亭(かんきょてい)がある。四畳台目隅板、中柱出炉下座床の洞床の茶室。1928年(昭和3)山口玄洞の建立。決して歴史のある茶室ではないが、古田織部好みで「侘び」の中に気品ある華やかで開かれた雰囲気を醸し出す。

物の価値は、歴史だけでは理解出来ない。「歴史」というブランドを取っ払って素直に見ると浅い物でも素晴らしい物はある。

夕刻、涵虚亭でスケッチをしていると、「熱心だね」案内係の男性が、声をかけてきた。 「貴人口から入り込む柔らかい光の中で、洞床を見てみたいんです。」って無理な注文。 少し考えた顔で辺りを見渡した男性は「今誰も居ないから入っちゃいな」約10分あまり誰も居ない涵虚亭で、腰を下ろしゆっくりと茶席を味わう。

素敵な空間の出会いは素敵な人との出会い。笑顔で興臨院を後にした。

DSC050516_p50 マイフォト:050516_大徳寺 塔頭 興臨院(その他の写真)


DSC050516_s50 マイスケッチ:050000_スケッチ(その他のスケッチ)


創建:太永年中(1520年)畠山左衛門佐義総が仏智大通禅師を開祖として創建。以後 畠山家の菩提寺。畠山家没落後、前田利家により再建。以後前田家の菩提寺。
宗派:臨済宗 大徳寺派
建築:表門・唐門・方丈(1533年再建 禅宗方丈建築)茶室(涵虚亭)
庭園:方丈前庭(蓬莱形式枯山水庭園 1975年年資料を基に中根金作が復元)
拝観 : 通常非公開(春・秋、特別公開)


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